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なぜ浦和はうなぎが名物なのか?江戸時代から続く沼地の歴史。

目次

なぜ「浦和=うなぎ」なのか

「浦和といえばうなぎ」。そんなイメージは、じつは偶然ではなく、川と沼に囲まれた土地柄と、中山道の宿場町としての歴史から生まれました。縄文時代の食文化から江戸の旅人のスタミナ食、そして現代の“浦和名物”へ。浦和のうなぎの歴史をたどりながら、その背景にある風景や人びとの営みに触れていきます。

浦和は昔から川や沼が多く、天然のうなぎがよく獲れました。そこでとれたうなぎを中山道を行き交う旅人が求めるようになり、「宿場のスタミナ食」として定着していきます。江戸初期創業とされる「山崎屋」をはじめ、浦和宿周辺には蒲焼きを看板に掲げる店が集まり、明治以降も「萬店」「満寿家」などが加わることで、「浦和名物」のイメージが強まりました

2008年には「浦和うなぎ料理」がさいたま市の伝統産業に指定され、行政の支援も受けながら、地域ブランドとして公式に位置づけられています。

川と沼に囲まれた“うなぎ天国”浦和という場所

浦和周辺の自然環境とうなぎ

浦和周辺は利根川・荒川流域の沖積平野で、かつては湿地や沼が広がっていました。こうした浅い水辺は天然うなぎが好む生息環境で、豊かな魚場となっていたため、“うなぎ天国”と呼べるような条件がそろっていたのです。

とくに中山道沿いの浦和宿周辺は、低地に沼や小河川が点在し、行商人や漁師が獲ったうなぎをその場で店に卸すことができました。「獲れる」「運びやすい」「すぐ調理できる」という三拍子そろった立地だったことが、浦和のうなぎ文化を育てる大きな要因になりました。

旅人が愛した「スタミナ食」としてのうなぎ

江戸時代、中山道の浦和宿は旅人や商人で賑わい、手早く栄養補給できる蒲焼きは評判となりました。汗をかく旅路で精をつける料理として広まり、江戸初期にはすでに浦和で蒲焼きを出す店が生まれていたとされています。

やがて浦和宿は「浦和で一服、うなぎで一息」という旅人の定番コースの地となり、江戸市中と信州・上州方面を結ぶ動脈上に位置したことから口コミも広がりました。こうして浦和のうなぎは、江戸近郊の“スタミナ食スポット”として知られるようになっていきました。

浦和のうなぎの歴史

縄文〜中世:うなぎ食文化のルーツ

縄文時代の貝塚からはウナギの骨が出土しており、この地域で古くから食べられてきたことがわかっています。中世以降の文献にも蒲焼きに関する記述が見られ、『万葉集』では大伴家持が夏バテ防止の食としてうなぎを詠んでいます。応永6年(1399年)の古文書にも「かばやき」に相当する記述が登場します。

浦和固有の記録は多くはありませんが、利根川・荒川流域は早くから川魚文化が栄えたエリアであり、そのなかにうなぎ食も自然に溶け込んでいたと考えられます。

江戸時代:浦和宿とうなぎ文化の形成

江戸時代の交通と需要が、浦和の蒲焼き文化を本格化させました。沼で獲れた天然うなぎを、その場で串に刺して焼くスタイルが広まり、浦和宿では江戸初期創業とされる「山崎屋」が最古級の蒲焼き店として営業を始めます。沼地で獲れたうなぎを中山道の旅人に提供したと伝えられています。

浦和では蒸さずに直火で焼く江戸風の技術が受け継がれ、宿場の景観や行楽文化と結びつくことで、「浦和=うなぎ」の原型がこの時代に形づくられました。

明治・大正〜戦後:鉄道と養殖が広げた浦和うなぎ

明治期に鉄道が発達すると、東京との行き来が増え、浦和名物としてのうなぎの存在感も高まっていきました。1886年創業の「うらわのうなぎ 萬店」、1888年創業の「満寿家」など、多くの店がこの時期に誕生し、宿場町から近代都市へと変貌する浦和で、うなぎは“ハレの日のごちそう”として定着していきます。

戦後は養殖技術の進化により安定供給が進み、全国的な養鰻業の発展とともに、浦和の店も天然に加えて養殖うなぎを扱うようになりました。これにより、量・質ともに安定した提供が可能になっていきます。

2000年代以降:「浦和うなぎ料理」のブランド化

2001年の市町村合併でさいたま市が誕生した後も、浦和地区の老舗うなぎ店は地域アイデンティティとして注目され続けました。地元のPRや祭り展開によりブランド化が進み、さいたま市による支援も受けて、2008年には「浦和うなぎ料理」が市指定の伝統産業となります。

毎年5月には「浦和うなぎまつり」などのイベントが開催され、行政・商店街・飲食店が一体となって「浦和=うなぎ」のブランドを全国に発信しています。

沼地と川がつくった「浦和うなぎ」の舞台裏

浦和周辺はなぜうなぎが獲れたのか

浅くて流れが緩やかな河川や沼地は、稚魚や餌が豊富で、ウナギの成育に適した環境です。浦和周辺では荒川水系の支流や用水路が網の目のように張り巡らされ、田畑に水を供給する一方で、うなぎや川魚にとっての“隠れ家”となる生息域をつくっていました。

とくに夜行性のうなぎは、泥底の多い沼や堀に潜み、そこで成長してから川を下っていきます。そのため、かつての浦和周辺は、漁師にとって身近で効率のよい漁場だったのです。

天然うなぎから養殖うなぎへ

現在、ウナギは絶滅危惧種II類に指定されており、かつて浦和周辺の沼地で当たり前のように獲れていた天然物は、今では非常に貴重な存在となりました。天然資源の減少や流通の利便性の観点から、養殖や冷凍流通が主流となり、国産養殖ブランドを使う店も増えています。

浦和の多くの店では、坂東太郎などの国産高級養殖ブランドを採用し、仕入れの段階からサイズや脂の乗りを厳選しています。そこに伝統のタレと焼きの技を組み合わせることで、“浦和らしい味”に仕立てているのです。一方で、天然ものの味わいも今なお高く評価されています。

中山道・浦和宿が果たした役割

中山道の浦和宿は、江戸から最初の宿場として人・物・情報が集中する場所でした。ここでうなぎを食べた旅人が、次の宿場でもその味を語り広めることで、浦和の名は広い範囲に知られるようになります。

宿場の茶屋や料理屋は、そうした需要に応えるためにうなぎ料理を競い合って工夫し、その蓄積が明治以降の専門店文化へとつながっていきました。宿場としての集客力が、蒲焼きを「需要のある名物」へと押し上げたことが、浦和うなぎの発展にとって大きな鍵だったといえます。

浦和のうなぎはここが違う

「蒸さずに焼く」浦和流の蒲焼き

浦和では、江戸風に蒸さず直火で焼く店が多く、香ばしさと脂の旨みを前面に出すのが特徴です。丸ごと串打ちしたうなぎを強い火力で一気に焼き上げ、途中でタレを何度も塗り重ねることで、表面はカリッと、中はふっくらとした食感に仕上げます。

関東でも「蒸し」を入れる店が主流になるなか、浦和では“焼きの技”を前面に出したスタイルを守る店が多く、それが通好みの味として支持されている理由のひとつです。

タレ・炭・水が生み出す老舗ごとの個性

醤油・みりん・砂糖のタレ配合や炭火の使い方、さらに水の扱いによって風味に差が出るのも浦和のうなぎの特徴です。老舗ごとに個性がはっきりと味に反映されています。

山崎屋のように、何百回と継ぎ足してきたタレを宝物のように守り続ける店もあれば、萬店満寿家のように、国産うなぎに合わせてタレの甘辛バランスを微調整してきた店もあります。備長炭の選び方や火床の組み方、さいたまの水をどう下処理に使うかといった細部の工夫が、同じ「浦和うなぎ」でありながら、一軒ごとにまったく異なる世界を生み出しているのです。

旅人のスタミナ食から“ごちそう”へ

かつては旅人や地元の人々が日常的に口にできるスタミナ食だったうなぎですが、資源の減少とともに一尾あたりの価格が高騰し、今では浦和の老舗ではうな重が5,000〜10,000円台という“ハレの日グルメ”になりました。

贈答用の折詰や、接待・顔合わせの会食に利用されることも多く、「浦和に行くなら一度は食べたい名物」として、観光の目的そのものになるケースも増えています。

歴史を支えてきた浦和の老舗うなぎ店

江戸初期創業「山崎屋」:日本最古級の蒲焼き店

江戸初期から続くとされる「山崎屋」は、浦和うなぎを象徴する存在です。創業は1600年代と伝えられ、日本最古級のうなぎ蒲焼専門店として、メディアやグルメ番組でもたびたび紹介されています。

現在は近代的なビルに建て替えられていますが、うな丼や肝焼きなどの定番メニューとともに、長い歴史に培われた味を受け継ぎ続けています。

「浦和うなぎ」が物語る風景と時間

浦和のうなぎは、豊かな川と沼が広がっていた土地柄と、中山道の宿場として栄えた歴史が重なり合うことで育まれてきました。縄文の昔から川魚文化の中にうなぎが息づき、江戸時代には旅人の疲れを癒やす蒲焼きとして親しまれ、明治以降は鉄道や養殖の発達とともに「浦和名物」としての存在感を強めていきます。

かつて身近な天然うなぎに恵まれた浦和周辺の水辺は、今では姿を変えましたが、老舗の暖簾の奥には、沼地の記憶や宿場町のにぎわいが静かに受け継がれています。蒸さずに直火で焼き上げる独特のスタイルや、店ごとに継ぎ足してきたタレの味わいは、こうした長い時間の積み重ねそのものです。

一杯のうな重の向こう側に、沼地の風景や中山道を行き交った人びとの姿を思い浮かべてみると、浦和うなぎの味わいは、いっそう深く感じられるはずです。

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